2010年10月28日木曜日

映画で見る人権のちょっと深いとこ

映画祭ボランティアを始めてから、映画好きの友人に会ったときに聞く質問がひとつ増えました。「“人権”って言って思い出す映画、ない?」

そんな中で友人のひとりが急に熱く語りだした映画、『白いカラス』(ロバート・ベントン監督、2003年)。黒人の両親から生まれた、白人の容貌をした男の話。その設定だけでも十分興味深いのですが、ストーリーは、白人として生きることを選び、社会的地位を築いた男が、黒人差別発言で地位を追われるところから始まります。

映画の中で、男がまだ若い頃、つきあっている白人女性と、結婚を前提に男の実家に挨拶に行きます。玄関を開けて黒人の母親が出てきたときの女性の引きつった笑顔。普段はまったく意識しなかった自分の中の差別心を暴かれる衝撃。本人は傷つけるつもりがなくても、その人の中にまるで常識のように根深く染み付いた差別意識が大切な人を傷つける、そんなことにハッと気づかされる映画だった、と友人は教えてくれました。


そんな自分の中のものの見方を、ちょっと広げてくれる映画をもう1本。11月公開の『スプリング・フィーバー』(ロウ・イエ監督、2009年)は、バイセクシャル、ホモセクシャル、ヘテロセクシャルの男女5人の人間関係を激変する現代中国を舞台にみずみずしく描いた傑作です。












昨年の東京フィルメックスで上映されたときは「男同士の激しい濡れ場」として話題になっていたようですが、3人の男性登場人物がそれぞれ違った形で求めているセックスを含めた人間関係を、ぜひ丁寧に追ってみてください。ときに自分自身のことでさえも分からなくなる人間の複雑さ、曖昧さ。その上で、他者を理解することの難しさ、それでも関わろうとするのはなぜか。「純粋なラブストーリーです」という監督のコメントが沁みます。「人権」を考えるときに、そのベースに何をおくか、とても考えさせられた1本です。












写真はすべて『スプリング・フィーバー』

『スプリング・フィーバー』
2010年11月6日(土)より渋谷シネマライズほか、全国順次公開


公式サイト 
http://www.uplink.co.jp/springfever/


(N)

2010年10月23日土曜日

フィリピン、海と子どもと私たち ~ 「鉄屑と海と子どもたち」

フィリピンの貧困地域、という言葉から、私たちが連想するものは何でしょう。
ゴミ山、ゴミを拾って生活する人、衛生状態の悪さ、有害物質……
マイナスイメージが強いと思います。

首都マニラでも最貧地域とされるバセコ・トンド地区。

ここを舞台とする映画が、今年のSKIP シティ国際Dシネマ映画祭で上映されました。
邦題は「鉄屑と海と子どもたち」(ラルストン・G・ホベル監督、2009年)。

同映画祭にて脚本賞を受賞しています。

主人公ら少年たちは、海底に潜って鉄屑を拾っては換金し、家計の助けにしています。

これは非常に危険で、映画の中でも少年がひとり、波にさらわれてしまいます。
映画のキャストは、役者としては素人、けれども現地で実際に潜りを行っている少年たちから選ばれました。
主役の少年は当初文字が読めず、耳で聞いて台詞を覚えました。
それが撮影終了までには文字が書けるようになりました。台本も自分の台詞だけでなく、全体を覚えてしまうほどだったそうです。

映画は丁寧で詩的な映像が印象的です。
ゴミ山や貧困、臓器売買などが赤裸々に、あるいは淡々と描かれつつ、そこにある人々の営みが、静かな感動を呼びます。
私はこれを観た後、貧困地域を、単なる「不幸な場所」と捉えることができなくなりました。

このような子どもたちの存在は、実は現地ソーシャルワーカーでさえ、把握するのが難しいそうです。

映画は彼らの存在を広く知らせ、彼らの支援・安全の啓発につながるような、NGO参入のきっかけにもなりました。

切ないけれども美しい映画を観て、私たちとフィリピンの子どもたちがちょっと近くなる。
彼らを思うことが、日本に住む私たちにとっても、何かのきっかけになればと思います。

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭の作品紹介ページ:

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭「鉄屑と海と子どもたち」

公式ウェブサイト(英語): 
Bakal Boys


(YS)

2010年10月15日金曜日

言葉によって世界を見る~「パリ20区、僕たちのクラス」

『パリ20区、僕たちのクラス』(ローラン・カンテ監督、2008年)は、多様な人びとが暮らすパリ20区の中学校が舞台です。
アフリカ、東南アジア、アラブ系など、さまざまなバックグラウンドを持つ24人の生徒たちと、フランス語教師との日常を描いています。

文化も経済状態も違えばフランス語のレベルさえ異なる、フランス語の教室。まさに社会の縮図であり、現代がかかえる困難さが浮き彫りにされます。「教育」という視点から、いかにして人間の尊厳を守り、相互理解をあきらめないで続けるかが描かれます。

翻って現実の私たちの世界は、よそものを排除する方向へと進みつつあります。
対等な関係を築き、違いを認め合う社会をめざす、多文化共生が謳われた時代もありました。今でも理念的には変わっていないはずです。
しかし、911、「テロとの闘い」以降、安心・安全の確保の名のもとに、同一性を求めるようになりました。

“パリ20区”は、パリでも特に移民の多い複雑な地域です。
住民や移民間の葛藤など、移民の問題はヨーロッパでは日常的な現実。スロバキアでは、ロマの子どもたちが非母語での教育施設に入れられ、サポートはほとんどありません。

『パリ20区、僕たちのクラス』の舞台はフランス語の教室です。24人の生徒たち全員がフランス語という一言語に“統一”されれば、世界はひとつになります。
人は言葉によって思考し、世界を認識し、表現します。言葉というフィルターを通して世界認識します。言葉によって、世界を把握する方向性が規定されます。
とすれば、言語は単にコミュニケーションの道具としてのみ在るのではないことが分かるでしょう。

言語は地域や民族によって異なります。例えば、日本語は「雨」の表現が豊かだと言われます。「梅雨」「秋雨」「狐の嫁入り」など、さまざまな表現がうまれたのは、比較的雨の多い気候ゆえかもしれません。
私たちは言語のフィルターを通して世界を見ています。そこから固有の文化が生まれます。言語と文化は密接にかかわっているのです。この映画が、教室という語学教師と生徒との“戦闘”の場を舞台にしているのは、必然だったともいえるでしょう。


(WE)

『パリ20区、僕たちのクラス』原作~「教室へ」著:フランソワ・ベゴドー、訳:秋山研吉(早川書房・刊)